作品と空間vol.1では、ホワイトキューブと寺院や歴史的建造物などの公共空間での展示の違いについて取り上げてきました。ホワイトキューブは20世紀初頭に、ニューヨーク近代美術館MoMaで確立され、鑑賞者が作品自体に集中できる空間として展示空間と代表的な例の一つとなっています。一方、お寺や歴史的建造物などの公共空間は、それ自体が歴史的、文化的な分脈を持っており、作品と空間の相互作用や対話が生まれます。vol.1では、歴史的な背景と共に作品と空間について追ってきましたが、Vol.2となる本記事では、アーティスト國本怜さんとの対談を通して作品と空間の対話、そして國本さん自身の作品についてお話を伺いました。
ArtX: 國本さんは以前泉涌寺で展示をされていますが、ホワイトキューブとお寺で展示することの違いはやはり感じますか?
國本:感じますね。ホワイトキューブとお寺などの公共パブリックスペースの文化的な意味合いの違いなんですが、 ホワイトキューブはやはり情報を限りなく削ぎ落として、 作品の中によりフォーカスできるようになっていると思います。

ArtX: 実験室みたいな感じですよね。

國本: 特に例えば今、現代アートとかでは、良い言い方をすれば「純度」が高まっていて、 コンセプチュアルアートだったり、さまざまなアートジャンルがより凝縮されている。悪い言い方をするとよくわからない、マニアだけのものになっているような感じがします。 ホワイトキューブはアートが元々好きな人が行って楽しめるものがある空間なので、 純度の高いものを見ることが担保されている場所になっているように思います。 言うならば、幕張メッセでのコミケみたいな感じですね。空間自体は密度が濃いので、僕はホワイトキューブもパブリックスペースも大好きなんですけど、どちらも意義が違うなと思っています。ホワイトキューブはアートの純粋さを突き詰める空間ですね。パブリックスペースは人の生活とか、もっとニュートラルな人々の生活とどう結びつくかというもので、地域の芸術祭、例えば石巻市でやっている復興を絡めたアートフェスなどはまさしくそれを体現していると思います。 人々の生活とか、 実際に現実で起こったことと、芸術がクロスオーバーするポイントを探して、学び、表現する場所で、より開かれたものだと思っています。 もちろんお寺というのはパブリックスペースです。 特に、お寺は昔から 宗教施設というだけでなく、葬祭や教育という機能もあるし、とても生活に根付いた場所なので、 お寺を含むパブリックスペースとホワイトキューブの違いの意味はそこにあるのではないかと思います。
ArtX: 國本さんにとってやはり展示される場の関係性というのはとても大きなものでしょうか。
國本: 大事ですね。音を扱う作品を作るので、 音というメディアの特性上、 インスタレーション形式になりやすいですし、 インスタレーションというのは空間と鑑賞者が紐づく場所なので、作品を制作する上で その点では避けようがありません。
Artx: 作品を作る時にその場を意識して作ることが多いですか。
國本: そうですね。 例えば照明の強さとか、サーキュレーターの風量、スピーカーを使う作品であれば音量を調整するなど、必ず調整する部分はあります。しかし同時に、作品はそれ単体で成立しているという状況も重要だと思っていますね。
ArtX: 私たちが去年に行ったイベント「sensescape」にも音や風を用いたインスタレーションを展示させていただきましたが、音や風など目に見えないもの、その五感を通して感じる作品の新鮮さと深みを改めて身をもって感じました。その点で特に、現代美術の中でも國本さんの作品は印象的だなと思いました。
國本: 現代美術は大きく二つあるのではないかと思います。コンセプチュアル、言論空間で機能する作品と、 工芸的な作品。 後者は微細なマチエールを探究し、五感を使って感覚的な美を追求するものだなとも思っています。一方で前者の言論空間で機能するコンセプチュアルアートは、それは全く別物だと思っていて、同じ現代美術とカテゴライズされていても、 哲学の延長にあるものだなと思っています。言葉で表現しきれない哲学の分野を、 他のメディアに転用した現代美術みたいな感覚ですかね。
それらは全くの別ジャンルで、音楽で言えばジャズとハードロックぐらい違うものだと思うので、そのように考えると、どちらも僕は好きで楽しんでいます。
ArtX: 日本の美学のどのようなところに惹かれますか?また、興味を持ったきっかけがあれば教えてください。
國本: 僕がそれに興味を持つまで、具体的にはアートを制作し始める前までは自分はグローバル化された価値観を持っていたと思います。 特に物事を定量的に扱うこととか、合理的な論理構造の型にはめようとすることとか。一方で、日本の文化に出会った時に、数字とか言語で表現できないということは、こういうことなんだと実感しましたね。例えば、茶人の静謐な茶室での一連の所作には、周りの雑音が何デジベルだったからとか、腕を上げる仕草が黄金比だったから感動したのかとかそういう話ではなく、極めて主観的な価値基準で感動したわけです。そういった経験を通して、今まで自分が世界を見ていた領域は、ある一つの窓からしか見てなかったのかという気づきがありました。

物事をみることにもっとたくさんの窓があるのに気がついて、「別のこっちの窓も開いてみよう」というように好奇心が生まれてきたのが日本の文化に興味を持ったきっかけです。もちろん、日本に限らず国や地域、言語などさまざまなレイヤーに応じて新しい世界の見え方があると思います。しかし、たまたま僕が育った日本、自分が選択したものじゃないものを受け入れるということも含めて、日本に住んで日本語を話しているギフトを活かしたいと思っています。そういった意味でも、日本のモノやコトをより知って咀嚼して、それを表現することをこの人生を通してやりたいなと考えています。